今日は、勉強ではなく、NHKの「日本人のお名前」で埼玉県を取り上げた番組を見て、いても立っても居られずに思ったことを書き記します。皆さんはどう思われるでしょうか?

 尚、これから書き記すことは偏見と思い込みが入り混じった全く検証をされていないお話です。

 どうぞ、温かい気持ちでお読み下さい。

 突然ですが、私は、生まれも育ちも東京都大田区大森です。少なくとも、江戸時代末期には大森に住んでいたようですが、東京都民でありながら郷土意識としての東京という思いはあまり強くありません。

 ここからは、偏見も強いのでどうぞ、お怒りになりませんようお願いいたします。

 私が子供の頃に、実家の付近で、第二次世界大戦前から東京で暮らしていた家は、ほとんどありませんでした。

 大森、特に海側の地域の平和島は、第二次世界大戦中はアメリカ兵などの捕虜収容所でした。戦後は、A級戦犯であった東条英機や昭和30年代初頭に首相を務めた岸信介(安倍首相の祖父です)が収容をされていた拘置所でした。

 大田区の海側地域は、私が子供の頃には海苔の生産地であり、海苔の干し場が多くありました。

 東京オリンピックにかけては、海苔などの漁業権放棄による補償金を得た人も多く、アパートが雨後の筍のように建設されました。京浜工業地帯での働き手が地方から上京して住むには絶好の場所となりました。

近くのおばさんたちの中には「最近は、地方からの人が多くなったね」とどこかの訛りで、にわか東京人を気取っている人たちも居たことを記憶しています。

 私が住んでいた地区は蒲田に隣接しており、他の地域の人々からは、行きたくない町でもありました。でも。良いこともありました。学校には、今の「ハーフ」の人たちが多かったのです。昭和34年頃まで、アメリカの第八軍の司令部組織が横浜に残っていたことと羽田空港が近くにあった関係で、お父さんがアメリカ人という友人も少なくありません。

 友人たちのお父さんは、ほとんどがその後にアメリカに帰ったため、それまでアメリカの名前であった友人が、ある日突然日本名になり驚いたこともありました。それと、小学校の同級生には、中国、朝鮮系の人たちもいて、友達として今もお付き合いが続いている方もいます。そのために、偏見を持つことはほとんどありませんでした。

 でも、自分の生まれた大森に田舎感を抱いていました。親戚が、四谷の大木戸の内側に住んでいたり、月島にいたりして、何故に私は、江戸府内で生まれなかったのだと子供心に本当の東京ではないという思いを強く抱いていました。

 池袋のある豊島区は、明治時代に浦和県から東京市に編入された元埼玉県。新宿は、四谷の大木戸の外にある江戸郊外の宿場町との印象を持っています。

 それが、問題でも何でもないのですが、本当の東京(江戸)に生まれなかった思いが、最近の言葉で例えれば、川口の方や朝霞市辺の方々が「ほぼほぼ東京」という悔しさなのです。

 そういえば、神奈川県の川崎市の方も「ほぼほぼ東京」と言うのでしょうか?

 では、私に郷土愛がないのかといえば、そうでもありません。私の郷土愛は、子供の頃に親に連れて行ってもらえるデパートがあった川崎や横浜です。東京に住みながら、郷土愛は、横浜や川崎なのです。

 歩いても行ける蒲田駅にも駅ビルができていましたが、昔の蒲田は子供心にも「チンピラの多い町」で、憧れるような場所ではありません。うーん、包み隠さず言うと郷土意識はそんな蒲田です。高校も、半分くらいは蒲田から田園調布を経由して武蔵小杉に通っていましたし、普段友達と遊ぶのも蒲田でしたので、郷土意識は蒲田です。

 しかし、郷土愛には憬れやキラキラ輝くものが含まれるような気がします。残念ながら、蒲田にはキラキラはありません。私が子供の頃には、現在の薬事法はなかったのか、蒲田駅の西口広場で、香具師の方がハマグリに詰めた怪しい薬を売っていたり、そうそう「ガマの油売り」そのものです。

 子供心にも、蒲田はカオスな街でした。

 親に連れて行ってもらうデパートは川崎や横浜。特に、夕飯として必ず土産に買ってくる横浜の「崎陽軒のシウマイ弁当」は、特別な食事でした。

 電車で銀座に行くのも横浜に行くのも時間的には大差はないのですが、その頃の銀座は高級デパートばかりで敷居が、否、家計が許さなかったのです。かといって、新宿は品川で乗り換えて1時間もかかり、遠くでした。

 それよりも、夜の山手線から見える新宿駅西口の淀橋浄水場(現、東京都庁付近の高層ビル街)の跡地は、真っ暗で子供心には不気味で新宿は、行きたいところではありませんでした。

※ミニ知識:新宿の西口って、街に段差があるのをご存知ですか?:新宿新都心は、淀橋浄水場の跡地の再開発で生まれました、浄水場は広大で深さもあり、新都心開発では、その浄水場の高低差を利用した街づくりが行われました。新宿西口って、地面が一階、二階のような感じになっていますので、是非ご存知でない方は、新宿西口で体感して下さい。

 そのような憧れや郷土意識からか高校は多摩川を越えて違和感なく川崎市の高校に通いました。横浜からの生徒も多かったのですが、そこで、それまでの「何々でサー。そうじゃん」という類の言葉は横浜ではあまり使われず「そうだべー」(テレビでは、サーやじゃん言葉は横浜とされているようですが、私にとっては、体感的にそれは、嘘です)というのには驚きました。しかし、そこは、若者、私もベー言葉を真似してよく使ったものです。今でも、横須賀などの三浦半島のお年寄りは「ジャンやさ~」ではなく語尾が上がる「そうだべー」を使う人が多いんですよ。

 それよりも、江戸自体が田舎の村だったのですから、各地から集まった人たちが使う言葉としての東京弁ができたのかもしれません。弥次さん喜多さんでも江戸川の辺りなどの言葉としてベー言葉が出てきますし。一度東京弁のルーツを調べたいと思っています。

 子供の頃に叔母と出かけたデパート。出かけたのが、たまたま台風の日で、その頃、何もなかった横浜駅の東口近くまで海の水が溢れ出た光景が鮮烈に目に焼き付いています。

 私達のアイデンティティの多くは、子供の頃に形成されるようです。その思いは、就職した後も続き、入社後、銀座支店への配属書類を見てしまったときに人事主査(そのころのJTBは日本交通公社で人事課長は人事主査でした。明治時代にJTBは役所として発足していましたのでその名残のある会社でした)に横浜にしてくださいと直訴(今では考えられませんね)し、入社後しばらくは営業本部付きとなり、その後、見事に横浜配属を勝ち取りました。

 何しろ、学生時代は人が潰されそうに混んでいる電車で都心への通学を余儀なくされていましたので、通勤で体力を失うことはNGでした。それと大好きな横浜に通うことは、多くの通勤者とは反対方面の通勤であり電車で座れることが何よりの理由でした。

 配属は、横浜関内の馬車道にあった支店、横浜の最も横浜らしいところで、私のアイデンティティとしての郷土愛は東京大田区ではなく横浜となりました。

 皆さんの郷土意識や郷土愛は、如何ですか。昨日、生徒に日本への一時帰国中の夏休みの過ごし方の指導をしました。その際に、兵庫県出身の生徒に兵庫県という郷土意識を持っているかと聞きました。生徒は「う~~ん」と困惑をしていたようです。現在は、タイのパタヤ近郊に住んでいますが、中学までは兵庫県の三田に住んでいたそうです。

 子供の頃、親と一緒に出かけたり、中学生になって友人と一緒に行くと嬉しかった場所は何処ですかと聞いたところ、三田市やその付近にあるイオンモールだったそうです。自分の故郷は何処と聞くと当然に兵庫県ではなく三田市なのです。

 皆さんの郷土意識は、どのように形成されましたでしょうか。

 子供の頃の体験は、良ければキラキラ、悪ければトラウマとなります。

 子供たちには、素敵な体験を通した素敵な郷土愛を持っていただきたいと願っています。