森鴎外の高瀬舟は、大学入試だけでなく、現在でも大学や大学院での研究課題として用いられています。
行間を読むという言葉を良く見聞きします。行間を読むためには、素養、教養力が求められます。
高瀬舟とは何でしょうか?一般的には、長さ5-6メートル、幅1.5メートル程の船底が平らな小さな川船です。高瀬舟の本文の中にも、罪人を遠島するための集合地に送るための船として描かれています。
高瀬舟は、小さな船で部屋もなくボートのような船ですので、しっかりと手足を縛らなくては逃走される恐れもあるような船です。当然に罪人は、手足が身動きできない状態に縛られていたものと思われます。
短編小説である高瀬舟では、詳細な描写はありません。
小説を読むときに読み手によって印象が異なることがあります。小説は、読み手の想像力により頭の中で描かれる映像が異なります。
私は、高瀬舟から受ける印象は、京都の高瀬川で運行できる船を想像します。人によっては、高瀬舟を葛飾北斎が描いた富嶽三十六景常州牛堀の船をイメージする場合もあるでしょう。常州牛堀に描かれた船は、高瀬川を行き来する船とは異なります。
そのように、小説は、それまでに見聞きし学んだことにより演出され、頭の中で映像化されるものです。演出が上手くなされたものとなるか、或いは演出なしの表面的な流れでしか読むことができないかによっても小説の読み方は変わります。
次に、森鴎外という人物がどのような人であったかです。彼は、日本医学会に並ぶものなしの超エリート医師です。彼の学んだ医学は、最新のドイツ医学であり、解剖学的な知識も長けていたと考えら得ます。
小説では、苦しんでいる被害者の苦しさを軽減させるために「喜助」が殺したと描かれています。また、作品の冒頭に島送りになる罪人は、獰悪(どうあく)ではなく、殺人であって情状酌量の余地がある罪人だとの旨が記されています。
また、現在のような近代裁判の形態ではありませんが、現在に似た裁判の流れが、江戸時代に於いてもあったと考えられます。それは、裁判における「一事不再理」です。厳格に、一事不再理であったかはわかりませんが、遠島となれば先ず再度の審理のために呼び戻されることは考えられません。きっと一事不再理であったであろうことは、松本清張の「いびき」に見ることができます。
遠島となれば、その刑罰は確定であり、遠島先で妻帯することも可能となり、新たな生活も可能となります。
遠島でなければ、江戸時代では殺人は死刑です。そこに高瀬舟の不気味さが読み取れます。
罪人である喜助の嬉々とした高瀬舟の中での言動です。
小説高瀬舟では、場所が京都であることが明記されています。高瀬舟は、横幅3-4メートル程の高瀬川を航行する船であり、船室もありません。露天の船に罪人である喜助が乗せられる際には、乗船後に逃げられないように、手足は身動きが取れない程に縛られていたと考えられます。それなのに、嬉々としてお上(幕府などの行政司法機関)を持ち上げたりとする態度は異常です。私は、喜助が能動的に殺人を犯したと結論をしています。
役人である庄兵衛が疑問をいだいたのは、そこであり現在に至る安楽死の問題として投げかけられています。
森鴎外は作者であり高名な医師です。もし私が、その事件の検死をしたのならば、きっと真実を見抜けるぞという自信が見えてきます。
高瀬川は、大学受験では、一般的に安楽死そのものに着眼点を置いた出題傾向が多いようです。
しかし、今一歩掘り下げて、安楽死が安楽死でなかった場合など、裁判が一事不再理であることから、他の裁判よりも時間と労力をかける必要性を論拠に基づいて述べると良いでしょう。
安楽死を認めるかどうかの出題が、ICUでは、様々な場合や方向性から安楽死を論じる問題として出題されました。
もちろん、安楽死の是非も論拠を明確にして書き進めます。
最後にまた余談となりますが、私が尊敬する「海の史劇、ポーツマスの旗などを執筆された吉村昭」先生は、入院中に「自ら点滴やカテーテルをむしり取り」亡くなったそうです。
きっと、その前に、弱った体の吉村先生は、そのような延命治療を中止するようにご家族にお話をされたはずです。
それでも、他者がそのようなことに手を貸せば犯罪です。
最近では、吉村昭先生の死を「自立死」と呼ぶ場合もあるようです。
人権問題も相まって安楽死問題は、教養学部、法学部、社会学部、社会福祉学部、総合政策学部、リベラルアーツ系学部の出題に多く用いられます。
文部科学省によると若者に求められる学習能力の重要な一つは批判的思考(critical thinking)だとされています。
批判的思考は、批判ではなくそこに隠されている意図を理解する能力です。例えば、物事を受け売りとして「そうなんだ」ではなく「そうなのかな?」から思考を始める姿勢です。
ネット社会が進む中、検証されていない物事を鵜呑みにしたり噂を事実して認識することは危険です。大学受験生の皆さんは、常に批判的思考を心がけて下さい。
受験生の方々は、多方向からそれまでの教養を駆使して論を進めることが求められます。