1万円札の「顔」が、渋沢栄一に決まりました。

私は、渋沢栄一と聞くと「藍商人、血洗島、徳川慶喜、国立第一銀行」のワードが、頭に浮かびます。

渋沢栄一の家業は、藍の商家でした。血洗島は、渋沢栄一の出身地です。彼が、武士となり仕えたのが、徳川(一橋)慶喜。彼が、中心となって設立したのが、国立第一銀行です。

渋沢栄一は、幼い頃から経済感覚に優れ、合理的な判断ができる人であったようです。幼い頃から藍の原料の仕入れ業務を担当し、渋沢家の隆盛に大きく寄与し、渋沢家は農民から武士に取り立てられました。

農民が武士となることは、幕藩体制に於いては大変なことでした。農民が江戸時代に支配層である武士になるためには、大金を積んで武士の養子となり武士となるという道がありました。しかし、渋沢家は、お金そのもので武士の資格を手に入れたのではなく経済力が認められて苗字帯刀から武士に列せられました。

前述のとおり武士に列せられることは、農民や町民にとっては考えられなかったのが江戸時代です。

どのくらい大変だったかのでしょうか。宇和島の伊達藩で蒸気機関を製作した「嘉蔵」を。例にお話を進めます。

細工職人であった嘉蔵は器用さを認められ蒸気機関の製作を命じられました。「※蒸気機関って古いって感じる」かもしれませんが、現在も一般的に用いられているタービンエンジンのルーツは蒸気機関です。火力発電所は、現在も使われている蒸気機関ですね。原子力エンジンも原理は蒸気機関と同じです。

その蒸気機関を見よう、見まねで作ってしまったのが嘉蔵です。何しろ、蒸気機関は誰も見たことがないような時代、それを見ただけで原理を取得し作ったのですから凄いことです。今に例えれば、中学生が旅客機のエンジンを見ただけで設計し、工作機械もない状況で製作し、旅客機に取り付けて実際に飛ばしたと考えてください。

嘉蔵は、功績を認められ武士に取り立てられました。しかし、その扶持米は「何石」というレベルでなく僅かなもので、食べることがやっとであったようです。今のような、高校や大学はありません。全く教育を受けていない人が蒸気機関を作ったなんて日本人の「凄さ」を垣間見られる出来事です。

このように農民、町人が武士になることは、大変なことでした。

渋沢栄一は、持ち前の経済感覚と商業感覚が優れていた人物です。しかし、時代は幕末、若くたぎる血は、勤王、尊王攘夷に傾注し、徳川幕府打倒への行動を起こします。しかし、ここで彼の合理的な判断が最終的には明治の経済の原動力となる出来事が起こります。なんと、打倒を目指した徳川幕府の要人である一橋慶喜の家来となるのです。

どこかの国で相手のヘイトスピーチを行っている人が、ヘイトスピーチ先の幹部になるようなものです。その判断は周りのバッシングを受けたことは当然だと思われます。それでも、正しいと信じた道を進むことは勇気と決断力の優れた人物です。

日本の歴史では、大小名、地方豪族の集合離散は当たり前です。そのときにつくべき相手を臨機応変に選ぶことは、一面から見れば「情が薄い」となります。しかし、家を守るため、命を守るためには懸命な判断です。最近の武士ブームで女性の間でも人気の高い、伊達政宗などもその典型です。より良い道を選ぶ決断は、勇気が必要です。しかし、洞察力をもって、それを行うことも場合により必要です。

今も、外国では、大会社のトップであった方が、競争相手の会社の幹部やトップとなることが話題とあることがあります。

さて、その後、徳川慶喜の弟がパリで行われる万国博覧会に出席することとなり、渋沢栄一は随行員としてヨーロッパに渡ります。ここでも彼は、運を発揮します。

ヨーロッパに渡っていた渋沢栄一は、幕末の戊辰戦争などの戦乱に巻き込まれませんでした。それどころか、ヨーロッパの優れた政治経済から下水道設備などのインフラの必要性迄を知る機会を得ます。

日本に彼が戻ったのは、すでに薩長支配による明治時代となった後です。

ここで、また余談ですが、パリ万博では、薩摩が、琉球薩摩国として徳川日本とは別の国として万博に参加していたことに徳川幕府は仰天したしたようです。この事実からも、欧米列強は日本の新たな支配者としての薩摩の勢いを認めていた事実を読み取ることができます。

帰国後は、当然に徳川幕府は、消滅していましたので、彼は「外国出張から戻ったら勤務先が無くなっていた公務員」となりました。

その後、明治政府の役人となりますが、明治6年の国立第一銀行設立の際に、三井などの民間の均衡を管理するため、総監役に就任します。それからの渋沢栄一は、ものすごい勢いで日本の経済界、実業界を作り上げてゆきます。それだけではなく、慈善事業にも献身的に携わります。

もう少し、余談をお許しください。明治って凄いイノベーションの時代だったのです。薩長政権への江戸城明け渡しや、鳥羽伏見の戦いの僅か4年後には、東京新橋から横浜桜木町まで汽車が走りました。郵便制度が始まったのは、それよりも早い明治4年です(学校では明治5年と学習します。それは、郵便切手が発行されたのが明治5年だからです)。

「機を見ることに敏」渋沢栄一をイメージする言葉です。それだけでなく、責任感が強くまとめ上げる力の「凄さ」も彼の特徴です。

渋沢栄一は、受験生の皆さんにも大きな夢を与える貢献もしています。

日本の経済界の基礎の足固めをし、実業家を育成するために、現在の一橋大学の前身である、東京商業学校を設立します。えっ、そうすると時期発行予定の日本銀行券の1万円と5千円、千円札全てが大学の創始者となりますね。

悪く言えば、変わり身が早いという見方もあるかもしれません。しかし、歴史を学ぶと敗者の美学よりも、選択の正しさが新しい何かを生む原動力となっています。

※何々って。というような小文字の「っ」は、NHKでは東京弁だとしています。「何言ってんだよ」とか「どっかに行っちゃったよ」と普通に言いませんか?私は、NHKの東京弁という決めつけに、違和感を持っています、ということで、口語として「っ」を用いました。でも本当はどうなのでしょうか?