「私はあなたの意見には同意できない。しかし、私は、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」18世紀のフランスの哲学者ヴォルテールの言葉です。

1月14日成人の日の朝日新聞の社説のモチーフとしても取り上げられていました。

私達は、自然と自分自身が考える方向での答えを見つけたり、そのような内容のネットの書き込み等に共感し、自分の考えていることが正しいと肯定をする場合も少なくありません。

私自身、自分の考え方或いは答えを裏打ちする「論拠」をしょっちゅう探し回っています。

人は、持論の裏付けを求める傾向が強く政治にもそれが顕著です。

国会でも代議士や議員の方々が「何々が何々で、そうではありませんか?」と自分自身の言葉を他の賛同を得る発言をすることは国会中継で日常的に目にする質疑の形です。

私は、その質疑を聞くたびに無責任なポピュリスムを感じてしまいます。

本来ならば、「何々だから何々でなければならない」と後戻り出来ない意見を述べていただきたいものです。その場合は、反論もあるでしょうが、第三の選択肢の意見も出てくることは当然だと思います。しかし、国会の場では、白か黒かの立場でしか意見がほとんどで、第三の意見があったとしても、取り上げられることは殆どありません。それは、国会が多数決の論理であるからです。したがって、第三の意見は「場違い」なのかもしれません。

だからこそ、その第三の意見を述べることは困難であり、第三の意見には問題の本質と論拠がしっかりしていなければならないのです。

第三の意見は、時には日和見であるとか、そのような中間的なことだから問題の本質の解決にならないとされる場合も少なくないようです。

以下は、私が考える第三の意見の一例です。

今月22日に行われる日露首脳会談に於いて、北方領土問題が取り上げられます。

私は、ロシアの立場に立てば、北方領土は返還しません。それは、日本は第二次世界大戦を経て、日本の再独立を目指したサンフランシスコ講和条約締結の際に吉田茂首席全権が日本の施政権が及ぶ範囲に国後択捉が含まれるという答弁をしませんでした。よって、ソ連が批准していないサンフランシスコ講和条約でも千島列島は南千島を含めて日本の施政権は及ばないと解釈されたようです。その発言を裏付けるように、外務省の西村条約局長が、「国民的感情としては、国後、択捉は千島列島に含まれないかもしれないが、全体で見ればその2島は千島であると解釈するのが妥当(要約です)」と発言したことから国際的に見ればそれが決定事項です。

では、何故、そのように日本が自発的に認めたと言われているような決定事項を覆そうとしているのか。それは、共産主義との対立、米ソ対立に於いて、国後、択捉を含めた北方領土の主権回復は反ソ、或いは反共感情にも有効であったのです

私は、このブログを書きながらためらいも感じています。私は、歴史的な事実を述べて、そこからの解釈を述べているだけです。

そのように考えると、安倍首相は、吉田茂首席全権が述べた、サンフランシスコ講和条約締結の際に述べた、日本の範囲を色丹島及び歯舞諸島を含めた発言で決着すべくプーチン大統領との会談に臨むことが理解できます。

また、その方向性が、国際的な約束事を遵守する日本の姿勢としても重要だと考えています。そうでなければ、未だに国連の憲法である国連憲章に敵国とされている日本は、戦争を反省していないと見られる恐れもあるのです。

日本は、今後、発展途上国の台頭や少子高齢化により経済水準が低下し、国力だけでなく交渉力も相対的に下がる傾向にあります。だからこそ、解決すべき問題を後送りに出来ないと考えています。

学校では、サンフランシスコ講和条約でのこのようなやり取りや、その後の外務省の見解を学ぶことはありません。それは、国にとって不都合なことをわざわざは教育しないということです。これは、何も日本だけではありません。敗戦国である日本でさえこの教育の現実があることから、戦勝国やそれに類するような国では第二次世界対戦の反省は不要な訳であって勝手な解釈での教育があることも理解する必要があります。

よって、ポピュリズムに流されず、何故その問題に大きな見解が生じるのかを学び検証することが受験生のみならず大人に求められる資質です。